この紙芝居には、現代では不適当な表現と思われる部分がありますが、
昭和初期に作成されたものであり、
日本の当時の状況を伝えることも歴史検証のひとつと考え、
ほぼそのままの表現を使用しています。
先生がまだ6,7歳の頃、お婆様と田舎の小道を通る時、
ふと行き違った車にはね飛ばされ「アッ」という間に溝の中へ落ち込みました。
あわてふためく二人をよそに、先生は別に驚きもせず、仰向けになったまま
平気でいつまでも大空をみつめていました。
その頃から先生は、若君の相手役として城内に召されましたが、
いざお勤めとなるとまるで別人かと思われる程の精勤振りで、
どんな嵐の日にも蓑笠を身につけ、
足をふみしめながら、一日も怠ることなく立派に勤めを果たしました。
その中に先生は12歳を迎えました。
ある日、お父様の薬を買ってお江戸日本橋にさしかかった時、
ふとしたことから備前岡山の池田侯から散々な辱めを受けました。
しかし相手は大名、自分は貧乏武士の忰、この場合泣寝入をしなければなりませんでした
口惜しさが身にしみました。
それから先生は、毎日お勤めの傍ら、僅かな暇を惜しんでは
学問の勉強と絵の修業に精魂を打ち込みました。
もともと貧乏であった先生の家は、大勢の子供と、お父様の長患いのため
その日の暮らしに困る程になりました。
そして家中の者が餓死を待たねばならぬ程になったので、
遂に幼い弟をお寺へやることになりました。
その日はひどい雪で、板橋まで送って行った先生は、見も知らぬ寺男に手をひかれながら、
後をふりむきふりむき別れて行く弟を、無量の感慨にふけりながら、
雪の中に姿の消え去るまで、じっと見送っていました。
もともと絵を書くことは好きです。その好きな絵をかいて、
目の前に迫っている難儀を切り抜けるほかはないと固く決心した先生はそれからというものは、
ほとんど一日おきの徹夜という猛勉強をいたしました。
「見よや春大地も亨す地蟲さへ」
腕は見る見るうちに上って、師匠の谷文晁先生さえ、驚く程の上達振りでありました。
だが備前侯の辱しめが鞭打って、もう一段と腕を磨きたいという熱心から、
当時新しい学問や絵の中心であった長崎へ、こっそり走ろうと決心いたしました。
それを知った病気のお父様が、大変心配して、先生の帰りの遅い或る晩、
先生に知られぬように迎えに出られました。
その事を知った孝心深い先生は、衰えたお父様の心中を察して長崎行きの熱望を断念し
一意専心、御奉公と父への孝養につとめはげみました。
だが、お父様の病気は段々重くなり先生の心をこめた孝養も
その甲斐なく先生が32歳の夏、
60歳を一期として遂に亡くなられました。
先生の落胆振りは、はたの見る眼も気の毒な程でした。
泣く泣く筆をとってそのお姿を写し、丁重な野辺の送りをすまし、
長い間、心をこめての供養を怠りませんでした。
それから一年過ぎて、三宅十三代の康明侯が亡くなり、
世嗣の問題をめぐって家老達の口からは、恐しい声がもれ始めました。
わが身を忘れてひたすらに藩のために精進される崋山先生の働き振りに、
康直侯いたく満足され、天保三年遂に家老に挙げられました。
その年の秋のこと田原藩内赤羽根の海岸に一隻の難破船が打ち上げられました。
何も知らぬ海岸の人達は、その船から全部の荷物を拾い取ってしまいました。
後になってそれが、紀州藩のものとわかり遂に公儀へ訴えられ、大変な騒ぎとなりました。
三宅侯は先生に「うまく解決せよ」と命じました。
それから先生は夜もろくろく眠らず、食事も忘れて方々を奔走し、
漸く事件を内済にすることができました。
漁夫達は生き返ったように喜び合いました。
これも偏えに先生の御陰と、代表者が心ばかりのお金を包んで先生を
江戸の邸に訪れました。しかし先生は、それをどうしても受け取りません。
漁夫は困った揚句、金包を置いて立ち去ろうと致しますので、先生は
「それ程迄に言われるなら」といって快く受取り、それをすぐにまた返して
漁夫達はないと思った一命は助けられ、人の道を教えられ、その上厚い情をかけられて
先生を神様の再来と感泣し、涙ふきふき国へ帰り御恩報じを誓いました。
明ければ天保四年の飢饉、領内には餓死する者が沢山できました。
見るに忍びぬ先生は、常日頃の収穫を蓄え、非常時に備えるため、
お殿様にお願いして郷倉を造ることになりました。
領民の喜びは一通りではなかったのです。
「ありがたいことだ。」お倉が建った時、先生は、真っ先にお祝いとして十俵の米を寄附いたしました。
これを聞いた領民たちは、それぞれ身分相応の寄附を申し出たので、
見る間に報民倉には米や麦や粟が一杯になりました。
この穀物こそは、あの恐しい天保7・8年の大飢饉に備えて、
領民の命をつなぐ尊い糧となったのであります。
しかし、報民倉の俵(穀物)では、日本中の大飢饉の前には、
幾日分かの食糧に過ぎませんでした。
康直侯は心痛の余り「この窮状を救うものは崋山のほかにはない。」
と早速江戸に使いを出して、先生の帰国を求めました。
その時先生は、頭も上がらぬ大病でどうすることもできませんでした。
苦しい中に筆を取って、
田原へ着いた眞木重郎兵衛は、先生の代わりとなって色々と指図をしました。
お殿様始め領内のものは、心をあわせ、力をあわせて働いたので、領民はやっと一命を取止め、 先生の御心尽しに唯々感涙にむせぶのでありました。
幕府はこの事情を知って、前例のない表彰式を江戸城内に挙げました。
それから先生は少し病気が軽くなったので今度は痩せた田原を建直すために、
佐藤信淵(さとうのぶひろ)、大蔵永常(おおくらながつね)というような殖産の大家を招き、
作物の改良、増産の工夫を指導してもらいました。
その時分、一度眼を国外に向けるとそれは実に危険千万な時代でした。
北からはロシヤの赤い手が伸び、南からは腹黒いイギリスが、
日本をつかみかけているのです。
将軍も幕府の役人も、一向にそれに気づかず国民も知らぬが仏で、
泰平の眠りをむさぼっていました。
しかし常々外国の動きを注視していた先生は遂にこらえ切れなくなって、天保10年の正月
「愼機論(しんきろん)」
を書いて、その事を当局者にそれとなく知らせようといたしました。
けれども、先生等を危険人物とにらんでいた幕府では、この年、
理不尽にも先生等をしばり上げて「幕府の政治を批評する不届者」
といって死刑にしようとしました。
その時先生を最もよく知る、松崎慊堂(まつざきこうどう)という大学者の助命運動が
効を奏して僅かに一命は助けられましたが、
遂に江戸を追い出され草深い田原に蟄居せよとの沙汰を受けました。
国を愛し国の現状を憂うる先生のまごころも、遂に幕府の役人には届かず、
あわれ先生は、罪人として警固も厳重に田原へ送られました。
田原へ着いた先生は、池の原にお邸を賜わり、
年老いた母を中心にわびしい生活を始めました。
しかしここも安住の地ではありませんでした。
お母様へ孝養をつくし生活費を得るためにと思って、弟子の半香(はんこう)が
江戸で売った絵のことからお殿様へ迷惑がかかりそうだとの世間のうわさは、
遂に忠義一徹の先生に自殺を決意させました。
この年の正月には妹のおもとさんへ孝行くらべをしようと書き送った程でしたが、
それさえ今はできず、
不忠不孝の人として死なねばならぬ先生の心中はどんなに悲痛なものだったでしょう。
先生はいまわの際に、忠孝の大道を更に強く御長男に書き残されました。
そして天保12年の10月11日49歳を一期として、
武士の作法も見事に切腹して尊い一生をおえられました。
先生生前の功績は 畏くも 天聴に達し、先生の没後五十年祭に際し、
贈正四位の御沙汰を拝しました。
百年の歳月は夢の如くに流れ、今や我が国は米英打倒のために奮い立ち、
ここに大東亜戦争を戦い抜くに当り、この大先覚者を憶うこと切なるものがあります。
今や旧里田原には国民の鑑として崋山神社建立の計画が進められています。
一億国民奮起する秋は来ました。
職域は正に戦場であり、貯蓄は正に民族興廃の指標にほかなりません。
民族の一念を結集して地軸を貫くこの聖戦をたくましく完遂しようではありませんか。